梵 ブラフマン 宇宙意識 唯一神
とはわたしたち一つ一つの生命の気づきの光です。
人類はこの透明な気づきの光を神や仏として崇めてきました。
大乗仏教の真理「空」は、サンスクリット語ではシューニャと言います。シューニャとは印度の数学では0のことです。
わたしがここでいう0は空っぽで何もないということではありません。
わたしがいう0とは、常に絶対的に揺るぎない基準として、他の数字を秩序付け、在らしめる存在としての0です。
少し難しいかもしれませんが、絶対数0が揺るぎないからこそ、0からの差異として1が1として2が2として正確に秩序付けられるのです。
この絶対的であるが、けっして数えられることのない無属性の数字0、これが仏教のいう「空」であり、ヒンドゥーのいうブラフマンなのです。
空は空っぽの心ではありませんでした、すべての現象がこの0なる空に依存してあらわているのです。
よって真我、本当の私は相互依存していて実体をもたないのではなく、すべての現象を映し出す根源の光として独存する実体なのだと言えましょう。
クンダリーニとは宇宙エネルギー、プラーナが生み出される二重らせんのコイルエネルギーの構造を示しています。
右巻きのコイル状のエネルギー、ピンガラは求心性を、左巻きのエネルギーは遠心性のエネルギー、イダをそれぞれ示します。
私見ですが、クンダリーニとはイダとピンガラの相反する磁場がそれぞれ打ち消しあうことで生じる0磁場と思われます。
0の電磁場ですから、そこから発する光は透明なんじゃないかなーって思います。
その透明な無属性の光(真我)に映し出されて、わたしたちが現実と呼ぶ、あらゆる色(ルーパ)の色とりどりの世界(マーヤ)が広がっています。
聖賢ラマナ・マハルシは繰り返し言っておられます。「現実は映画のようなものです。その映画を映し出しているスクリーン(真我)を見なさい」と
私たちはあべこべに物事を見ていたのでした。「顛倒夢想」、般若心経はそこを見事に指摘していますね。
クンダリーニとブラフマンは同じです。双方が気づきの光を指しています。
生きとし生けるものは、生まれながら仏なのだ、完全な存在なのだと気づきましょう。
太極図はクンダリーニを上から見た図です。黒色の陽は求心性、白色の陰は遠心性の二重らせん構造を持つエネルギー場です。これら相反するエネルギーがお互いに呼び合って、差し引き0の状態を保っています。
陰が極まれば、陽が生じ、陽が極まれば陰が生ずるというように、いつもお互いが等しく円満に調和するように、空のブラフマン、すなわち唯一神の意志「0」が働きかけています。
キリストはそれを愛と呼びました。愛はまさに神の力でありましょう。それは神そのものであるといって過言はなく、わたしたちの命の本質でもあります。
通常わたしたちは身体を実体だと思い込んでいるため、利害に依って対立し、絶え間ない争いを続けているように見えます。しかしながら、これも神の目で見れば、お互いの利益が等しくなるように調整しているだけなのかもしれません。
だから、わたしたちはもっと安心していいのです。この二重らせんの愛の力はわたしたちのDNAに組み込まれているのですから。わたしたちがどうしようと、細胞一つひとつの気づきが調和に向かっています。
この苦しみを神に明け渡して安らいでいようではありませんか。